天草の小さな畑がある古民家

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終戦の日に思う

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今から68年前の1945年8月9日午前11時2分、私は小学6年生だった。あの時は町の小高い山の上で、ラミーの皮(乾燥して軍服の材料になるとか)を、みんなで剥いていた。突然ぴかっと稲妻みたいな光がして、暫くするとドドンと音がして、あのキノコ雲が立ち登ったまさしくキノコ状の形で、頂上の中からは、鮮やかなピンク色の雲がもくもくと繰り出して来て、暫くはみんなで綺麗だなと言って眺めていた。その下で何万もの人たちが地獄の苦しみをしていた事も知らないで・・・・・。
 
長崎市は我が町からは近い都市で、今なら高速船で40分、その頃も100分で行ける町だった。多くの人が働きに行ったり、移住したりしていた。翌日から怪我をした人達が続々と帰ってきた。すぐ近所のおばさんは、顔にお岩さんのようなケロイドをしていた事を思い出す。長くは生きないで亡くなったが・・・。
父がもし戦地にとられなかったら、私は叔父の家に預けられて、長崎工業に入学させられる予定だったらしい。爆心地からは幾らか離れてはいるが、もし居たら怪我をするか死んでいたかもしれない。人の運命はわからないものだ。
 
その5か月前に、すでに父はフィリッピンで戦死していた。そのことを知ったのは翌年だった。幼い6人の子供と祖母を託された母が、どんなに苦労したかは言うまでも無い。あの忌まわしい戦争さえなかったら、いま私はどんな人生を送っているだろうか・・・。
 
今なお日に何人も死ぬ争い事が、世界各地で絶えない。平和な日本に生まれた幸せを思うが、人間とはどうして話し合いができない因果な動物だろう。